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2012年 05月 21日
続・藤木秀吉と演劇博物館と戸板康二。
戸板康二が編集した藤木秀吉の遺稿集『武蔵屋本考 その他』は、一周忌の昭和15年4月28日に刊行され、藤木秀吉が蒐集にのめりこんでいた遺愛の「武蔵屋本」とともに、演博に寄贈された。



藤木秀吉著・戸板康二編『武蔵屋本考 その他』(非売品、昭和15年4月28日)。現在演博の図書室で閲覧できる本書は、戸板康二が寄贈したもの。「昭和十五年五月十四日」の日付印が押されている。わたしが初めて『武蔵屋本考』を手にしたのは演博の図書室だった。静かな図書室で戸板康二の寄贈書と気づいたときの感激は今でもとっても鮮烈。ちなみに「武蔵屋本」の方はためしに『津国女夫池』を閲覧したら、昭和15年5月22日の印が押されてあった。藤木秀吉が神保町の大野書店で、コレクション最後の1冊である『津国女夫池』を買ったのは昭和13年7月29日のこと。葉山へ避暑に行っていた戸板康二にまっさきにハガキで知らせた藤木さんだった。その現物かな、どうかな。



この時期の演博では、機関誌的なものとして、『季刊 演劇博物館』(財団法人国劇向上会発行)が刊行されていて(昭和11年7月15日創刊、昭和16年12月25日発行の第15号まで)、その第13号(昭和15年5月16日発行)の「受贈図書(本年一月以降四月末日まで」のところに、《武蔵屋本傾城半魂香外百六十冊・武蔵屋本模倣本平家女護島外九冊・名作三十六撰絵本太閤記外七十四冊(藤木秀吉氏愛蔵書)》という記入がある。注目なのは、その寄贈者として「戸板康二氏殿」と記載されているということ。藤木さんの「武蔵屋本」コレクションは、戸板康二の手を通して、演博に寄贈されたことを伺わせる。通夜の晩に戸板青年が藤木氏をよく知る河竹館長に対面したあと、寄贈の手続きが進んでいったと思われる。苦心のコレクションが演博に寄贈されることは、藤木さんにとって一番嬉しかったのはは明らかだったから、「藤木の小父さん、もって瞑すべし」であった。『季刊 演劇博物館』は昭和15年は1冊のみ、ちょうど1年後に発刊の第14号(昭和16年5月16日発行)の「受贈図書(自昭和十五年四月 至昭和十六年三月)」に、《武蔵屋本その他》と《武蔵屋本二四五冊》が記載されている。前者は「戸板康二殿」、後者は「藤木家」が寄贈者となっている。



《小村雪岱氏遺作舞台美術資料展》、『演劇博物館五十年』(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、昭和53年10月27日)口絵写真より。昭和15年10月17日に急逝した小村雪岱の遺作展が昭和16年1月10日より、さっそく演博で開催されている。明治製菓宣伝部員の戸板康二は雪岱の亡くなる4日前に、『スヰート』の紀元二六〇〇年の表紙画を受け取りにいったばかりだった。同年年末、『春泥』第4号(春泥社、昭和15年12月30日)の雪岱追悼号の編集の手伝いをしたたばかりの戸板康二。年が明けて、さっそくの演博の雪岱展。戸板康二も半ば関係者の心持ちで観覧していたに違いない展覧会。さらに、1月31日には演博で座談会が開催されていて(久保田万太郎、安部豊、池田大伍以下計13名出席)、その速記が『国民演劇』第1巻第2号(昭和16年4月1日発行)に掲載されている。



□



『演劇博物館五十年』(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、昭和53年10月27日)には、当時の館長・倉橋健による序に、

当初は逍遥の個人的コレクションや図書を基に発足した博物館も、河竹繁俊、飯島小平両館長時代の施設の拡充にもかかわらず、現在では既に手狭な感がないでもない。これほどまでに収集品がふえたのも、ひとえに学内関係者や一般篤志家の理解ある援助の賜物と感謝している。

というくだりがある。『演劇博物館五十年』は、メインである「ものがたり―演劇博物館五十年」に合わせて、「コレクション―資料に因むエピソード」もすこぶる面白い読み物になっている。「一般篤志家」であるところの藤木秀吉の名は、「コレクション―資料に因むエピソード」の「十五万を越す写真資料」の項の導入に大々的に登場している(執筆:林京平)。

 昭和十四年頃にはちがいなのだが誌名はさだかではない。藤木秀吉という人が「武蔵野屋本のことども」という一文をよせている。武蔵屋本というのは、明治二十二年十月から二十九年一月まで、三十七巻五十六篇の近松作品と、四巻のその他の浄瑠璃を翻刻した叢書のことである。丸善の店員であった早矢仕が翻刻に当った。『近松世話浄瑠璃』(明治二十五年、二巻)『近松時代浄瑠璃』(明治二十八~九年、三巻)とにまとめられたのがこの浄瑠璃本であった。
 藤木氏は、この意義或る出版物が世上からほとんど姿を消したことを残念に思うと同時に、その一部合綴本を逍遥が愛蔵し、逍遥から当館へ寄贈され、演博の図書室でみることのできた感慨をのべている。しかもこの本には逍遥が朱や鉛筆で誤りを正したり、時には短い感想などを書き入れてあるという。その書き入れを検討していくと、逍遥が後年おこした近松研究会のテキストとして用いたものであることを発見し、武蔵屋本ひいては早矢仕民治の努力が実ったことのよろこびがつづられている。この文を通して藤木氏が古書の愛好家であること、近松の愛好家であること、そして逍遥に深く傾倒している一人であることが知られる。
 前置きが少々長くなったが、実はこの藤木秀吉氏は、昭和四年頃、明治期の名優の扮装写真多数を寄贈された一人である。傾倒していた逍遥の記念博物館であるというのでいち早く資料を提供したのであろう。これらの写真は名刺判と手札判の中間くらいの大きさで、厚紙の台紙にはられている。浅草馬車道の内田九一、新富町の塙芳埜、木挽町の鹿島清兵衛(玄鹿館)、新富町の森山写真館、浅草公園の松林堂今津、浅草寺本堂前の入山銀治郎らの写真師たちの撮影したものである。ブロマイドのはしりである。今は大分黄変したりぼけたりしているが、明治期の芝翫・仲蔵・団十郎・菊五郎・左団次・団蔵・中村宗十郎・尾上多見蔵らから、当時若手の家橘(十五代目羽左衛門)高麗蔵(七世幸四郎)福助(五世歌右衛門)栄三郎(六世梅幸)らの舞台姿を見ることができる。


というふうに、詳しく記録されている。さらに嬉しいことには、「コレクション―資料に因むエピソード」の終盤には、

古典から現代劇に至るまで幅広い活躍をしている劇評家の一人に戸板康二氏がいる。戸板氏は手許に集まった舞台の記録写真を時折まとめて寄贈してくれている。館に戸板コレクションとでもいうべき写真ケースが固定した。

というふうに、戸板康二の名前も現在形で登場しているのだった。藤木秀吉と戸板康二の交流の象徴としての演博、ということを思って、胸が熱くなる。


ついでに、『演劇博物館五十年史』の「コレクション―資料に因むエピソード」で紹介されている、藤木秀吉が《逍遥が愛蔵し、逍遥から当館へ寄贈され、演博の図書室でみることのできた感慨》を綴ったくだりを、藤木秀吉の「武蔵屋本のことども」(初出:『学鐙』第42巻第11号・昭和13年11月20日発行)より抜き書き。

 黒色の布表紙に、題箋を貼り付けて、「近松浄瑠璃」と手記した見窄らしい一巻が、早稲田の演劇博物館に蔵されてゐる。内容は「曽根崎心中」以下十九篇の武蔵屋本を合綴したものであるが、扉に坪内雄蔵寄贈と記されて、明かに逍遥博士の手沢本であることが分かる。文中には随処に朱筆または鉛筆の書入があつて、仮名書に漢字を傍記し、妥当でない翻字を修正し、科白に鍵を付し、句読を打ち、傍線を引き、或は短い感想や、批評を記入してある。「言々流動」「……し得て妙」等の字句が至る処に見出さるゝ。中にも書入の多いのは、「槍権三重帷子」の一篇で、「不自然」「突然去る」「露骨」「分らぬ充分」「筆の才が利きすぎる」等の文字が読まるゝ。試みにこの篇が真先に取扱はれてゐる近松研究会に於ける博士の所説を読むと、「この作に不自然の嫌あるは否み難し」「年齢の一週りもちがふ男女の密通といふことは誰が目に見らるゝ不自然にて」「哀れなれども不自然なり」等の不自然論が繰返へされて、その不自然の三字に圏点が打つてあり、それから川船の條りで船頭の言葉が態とらしくて、近松が平生の技倆にも似ないとて「こゝらは筆任せの走り書きなるべし」とある等、この巻の書入と吻合するものがあつて、研究会に於ける博士のテキストがこの一巻であつたことは疑ふ余地が無い。惜しむにも余りあることは、この本は改装の際、心なき取扱者によつて頭部が裁断されて、特に多い上方の空間を利用した書入が、殆ど読み難くなつてゐることである。しかし乍ら、近松研究の萌芽であるばかりでなく、日本文学が科学的に取扱はれた嚆矢であるとへ云はるゝこの研究会で、逍遥博士に用ゐられたといふことは、武蔵屋本の輝かしき功績であつて、疵物ではあるが、この一巻が世に遺つてゐるだけで、民治瞑していゝわけである。

この当時の『学鐙』の編集長は、戸板康二を『三田文学』に推挙したとされる水木京太であった。戸板康二と水木京太の間で、藤木秀吉の話題が出たこともあったに違いない。



最後に、『演劇博物館五十年』のコラム欄の、戸板康二の文章を全文抜き書き。

 演劇博物館には、学生のころからよく行った。河竹繁俊先生が、慶応の帽子をかぶっている学生に、愛想よく声をかけて下さったのを忘れない。当時の先生は、まだ髪が黒々として居られた。
 日本演劇社に勤めるようになってからは、いろいろな用事があって、おたずねした。渥美清太郎さんと同行して、展示品の解説を、たった一人で聴いたりした。渥美さんは、坪内逍遥先生を心の師と仰いでいたから、演博は格段の思い出と、様々な感慨があったようにも見受けられた。
 演劇年鑑の編集会議を、館長室で催したこともある。『女優の愛と死』を書く時には、秘蔵の資料を見せていただき、ノートに筆写した。回想することが多い。
 先年ストラットフォードの小さな博物館を見学した時、東京の演博を、なつかしむ気持があった。そんな心象もあり得るのだろう。


演博の開館当初にはじまった河竹博士と藤木の交流は、藤木さんの死後は戸板康二が引き継いだ格好となり、その交流は戦時下から敗戦を経て、戦後へと続いてゆくのだった。



《演劇博物館歩廊にて(昭和24年)》、河竹繁俊『ずいひつ 牛歩七十年』(新樹社、昭和35年4月28日)より。『演劇学』第9号《河竹繁俊博士追悼号》(昭和43年7月30日発行)に寄せた「ある夜の先生」(→『夜ふけのカルタ』に「九段の一夜」として収録)にある、《「演博」の館長だった時代の先生が、なつかしく思い出される。ぼくが自分の仕事のために、博物館の本を見に行ったりして、廊下で偶然会うと、「やァいらっしゃい」と声をかけられるのだった。》というくだりがイキイキと実感できる、とてもいい写真。


# by foujita_kanako | 2012-05-21 21:55 | 年譜の行間
2012年 05月 20日
『書物展望』昭和16年7月号の河竹繁俊「藤木秀吉氏のこと」のこと。藤木秀吉と演劇博物館と戸板康二。
「日本の古本屋」にアクセスするたびにいつもなんとなく検索したりしなかったりする固有名詞がいくつかあって、そのなかのひとつに「藤木秀吉」がある。そして、不覚にも今まで知らなかった文献に遭遇したときはびっくりするあまりに、号数をメモして後日に図書館でチェックすればよいところを、突発的に購入手続きに入ってしまうことが多い。と、そんなこんなで先日届いたのが、河竹繁俊の「藤木秀吉さんのこと」という文章が掲載されている『書物展望』であった。



『書物展望』昭和16年7月1日発行・第11巻第7号(通巻121号)。表紙:蔵書票(アイロス・コルプ)蔵書印(静嘉堂文庫)。


こうして雑誌がまるごと一冊手元に届くと、通勤前の喫茶店やら昼休みのコーヒーショップやらで、隅から隅まで記事を読んだり広告を眺めたりする時間がたのしい。なしにろ『書物展望』なので、「おっ」というところは盛りだくさん。この号では、とりわけ生田葵(生田葵山)の「明治時代の劇評家」に興味津々だった。明治36年、團十郎が『清正誠忠録』のときに初めて歌舞伎座二階左桟敷で劇評家の人びととともに観劇したときのことが生々しく回想されている。一番左寄りの舞台に近い席に三木竹二、他に松居松葉、杉贋阿弥、伊原青々園、岡鬼太郎、岡本綺堂、幸堂得知、伊坂梅雪といった顔ぶれで、末席に正宗白鳥と肩をそろえる生田葵山。

……私が初めて接した其時の劇評家の態度に就ては、もつと語りたいものがある。それは劇評家達の意気が、全く舞台を厭してゐたことであつて、桟敷の先頭に座す森氏は、舞台の上で演ぜられる毒饅頭の舞台面で、権十郎の扮する片桐且元の所作が、気に入らなかつたのか、それとも間違つたことを為したのか、傍若無人に大声を挙げて笑つた。その笑声は舞台の上に迄も響き、團十郎の清正迄も、劇評家達のゐる桟敷を見上げたものである。しかも森氏は平然として隣席の猶も権十郎の挙止を批判する言を稍声高に語つてゐた。
 開幕中に大きな笑声を立てたのは森氏のみであつたが、他の劇評家達にしても、開幕中に俳優の挙止を、【るる】声高に非難して語り合うのを耳にした。一般の見物客もあるのにと、私はいくら劇評であるにしても、不謹慎の態度のやうに感ぜられて不愉快であつた。しかし温厚な伊原青々園氏や綺堂氏や、思慮緻密な岡鬼太郎氏に、そんな態度を示す筈はなく、気焔の高い他の人達であるのを書き添へて置く。


ついでに、朝日新聞の劇評家だった饗庭篁村は、《いつも劇評家達と一緒になつて芝居見物をしなかった。自身が明治文学の大先輩であるとの誇りからか、それとも朝日新聞社の方で篁村氏に礼を尽したものか、劇場側から招待されずに、朝日新聞社で買つた切符で平土間に夫人と共に見物するのが恒例であつた》とのことで、たいへん興味深かった。


生田葵山の「明治時代の劇評家」は、綺堂の思い出を綴ったもので、その初対面がここで回想されている團十郎が『清正誠忠録』に出演した明治36年の歌舞伎座の招待席でのことだったわけだけれど、その興行は近代歌舞伎史のターニングポイントである、明治36年3月16日初日、4月9日千秋楽の歌舞伎座興行であり、同年2月18日に他界した菊五郎の三人の遺子、丑之助が六代目菊五郎に栄三郎が六代目梅幸に、栄造が六代目栄三郎になった興行である……ということに気づいたとたんに、頭のなかは綺堂の『明治劇談 ランプの下にて』でいっぱい。取り急ぎ、金森和子編『歌舞伎座百年史』(1993年7月発行)を参照してみたら、この興行で三木竹二の不興をこうむった権十郎については、菊五郎の通夜の晩に井上竹次郎の案で、三月興行から権十郎を一座に入れて菊五郎の穴を埋めることになったが、結局千秋楽の日に発病し最後の舞台になってしまったことのことで(翌明治37年3月27日に他界)、権十郎が精彩を欠いていたのはいたしかたがなかったのであった。




《市川権十郎「幡隋長兵衛」水野十郎左衛門(明治二十四年六月歌舞伎座)》、犬丸治編『歌舞伎座を彩った名優たち 遠藤為春座談』(雄山閣、2010年5月)より。ずばりこの写真のことを、戸板さんはのちに三世河原崎権十郎に向かって「水野の一人立ちの写真があって、いい顔してますね。」と言っている(『銀座百点』第274号・1977年9月号の「銀座サロン」)。明治の歌舞伎にほんのちょっとだけ思いを馳せると、とたんに戸板さんと遠藤為春の対談を読みたくなる。それにしても、2年前に本書が上梓されたことはなんとありがたいことだろう! この本を手にしたときまっさきにうっとりだったのは、この権十郎のくだりだった。翁曰く「とにかく一番先に好きになる人」、そして「大へんに紺足袋が似合う人」。



……などなど、「明治時代の劇評家」に長々としみじみしてしまうのだけれど、戸板さんがのちに「学恩の大先輩」と呼んだ藤木秀吉が没したのは昭和14年4月28日。形見として、藤木氏遺愛の『歌舞伎新報』と『歌舞伎』の合本を贈られて以降、戸板青年はこれらの資料を隅から隅まで読み込んでおり、その最初の結実が、昭和16年3月発行の串田孫一主宰の『冬夏』の鴎外特集号に寄稿した「鴎外と竹二と」だった。河竹繁俊の「藤木秀吉さんのこと」が『書物展望』に載る少し前のこと。戸板康二と藤木秀吉の交友というと、どうしても三木竹二のことを思い出すのだった。藤木秀吉目当てに買った『書物展望』を機に、明治36年の『歌舞伎』を繰ったのも奇縁だった気がする。



鏑木清方による「対面」のスケッチ、『歌舞伎』第35号(明治36年4月1日発行)に掲載の川尻清潭の「曾我対面の型」に付された挿絵。66歳の團十郎が初役で工藤、丑之助改め菊五郎が五郎、栄三郎改め梅幸が十郎。権十郎は朝比奈を演じている。金森和子編『歌舞伎座百年史』には、《この演目は、明治の名優と次の世代の名優とのバトンタッチを象徴する。「ハテ、誰やらに似たわ似たわ」と團十郎の工藤が十郎五郎を見る時、その目に涙が光っていたといわれる。そうして、この時の演出が現行『対面』の型と定まった。》というふうに記されている。


□


さてさて、そもそもの目当ての河竹繁俊の「藤木秀吉氏のこと」は今まで知らなかった己の不明を恥じたくなるような、興趣の尽きることのない文献であった。河竹繁俊と戸板康二といえば、まっさきに思い出すのが、二人の初対面は藤木秀吉の通夜の日で、河竹繁俊は「あなたが戸板さんですか」と言ったというエピソードであるが、そもそも、河竹繁俊と藤木秀吉の交友はいつからはじまったのか。河竹繁俊は以下のように書いている。

 坪内逍遥博士の古稀記念に計画された演劇博物館ができてからであつた。同館の後援会が組織されて、特殊の芝居興行や講演会などが催されるやうになつた。その後援会の会員に藤木さんは加はれたのだと思ふ。だから、初めてお目にかかつたのは、昭和四五年の頃であつたに相違ない。その頃は牛込の新小川町辺に住んでゐた。
 ある時、演博館に来訪されて、明治初年の歌舞伎役者の写真を多数に寄贈して下さつた。例の手札形の、多くは褪色してゐる、あの役者の写真である。同氏に分かる限りは、裏面に解説までして下さつたを、たしか百七八十枚くらゐだつたと思ふ。ガランドウのやうな演博館では、早速それを陳列して、同氏に謝意を申し送つた。
 すると、これも夏の初め頃のことだつたやうに思ふが、御夫婦で来観された。その時、ちやうど逍遥先生がお見えになつてゐたので、お二人を御紹介した。先生も、さういい篤志家と知つて、快く逢はれた上、御厚志を感謝された。藤木さんは、はからずも逍遥先生にお逢ひして、お礼を言はれて恐れ入ると、とても悦んでゐた。
 そんなわけで、逍遥先生がおなくなりのあとも、時々来館されたり、追悼会とか逍遥記念祭などには、モーニングに身をかためて臨席された。早大の大島庶務部長も、同じ古河鉱業にゐたことがあるので、同席されてヤアヤアといふやうなこともあつた。……


……という次第で、河竹繁俊と藤木秀吉の交友は早稲田の演博がとりもつ縁なのであった。上記文中にある「同館の後援会が組織」されたとき、館報として『演劇博物館』が創刊された(演劇博物館後援会・昭和4年1月27日発行)。その第3号(昭和4年7月7日発行)に掲載の「後援会々員名簿」で、藤木秀吉が「特別賛助会員」として名を連ねているのを見ることができ、河竹の回想と合致する。昭和4年9月26日発行の『演劇博物館』第4号では、来る10月1日より演劇図書の閲覧が開始されることが大々的に報じられており、「寄贈図書、物品報告」欄にさっそく藤木秀吉の名前を見ることができ、このとき藤木さんが寄贈したのは「俳優写真帳 三冊・一二四」なる資料。これぞまさしく、上掲の河竹繁俊の言う「明治初年の歌舞伎役者の写真」なのだった。



《開館式における坪内逍遥の挨拶》、『演劇博物館五十年』(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、昭和53年10月27日)口絵写真より。演博の開会式は昭和3年10月27日、爽やかな秋晴れのもと、午後1時から建物前の広場で開館式が開催され、約600人が参列。逍遥の演説は一時間にも及び、逍遥のすんだ声の名演説はマイクの設備などなかったのに隅々まで響き渡ったという。



演博の初代館長は金子馬治であったが、演博の竣工間際に病気になり、急遽、河竹繁俊が副館長となり、館長の代理として開館式にのぞんだ。その後、河竹は昭和9年10月29日に館長に就任、昭和35年3月に定年により退任するまで、長らく演博の顔だった。そんな演博の船出のもっとも最初期に、藤木秀吉は後援者として名を連ねていたわけで、「古本」と「演劇」が趣味の藤木秀吉にとって、なにはともあれ、演博の誕生はこの上ない歓びだったのは確実。


そして、戸板康二と河竹繁俊が出会ったのは、藤木秀吉の通夜の日のこと。『演劇学』第9号《河竹繁俊博士追悼号》(昭和43年7月30日発行)に寄せた「ある夜の先生」(→『夜ふけのカルタ』に「九段の一夜」として収録)は、

 河竹繁俊先生には、昭和十四年の四月にはじめてお目にかかった。
 ぼくが学生時代、自由にその書斎に出入りして、所蔵の演劇書を読ませてもらった藤木秀吉氏が急逝した時、弔問に来られたのである。藤木さんと先生との交友については、何も知らない。ぼくが玄関の受付をしているところにはいって来られて、「あ、君が戸板さんですか」といわれた。


という一節で始まる。この「あ、君が戸板さんですか」という河竹の言葉は、藤木秀吉から戸板青年のことをかねてより聞いていたことを伺わせて微笑ましい。『三田文学』の書き手として昭和10年にすでに世に出ていた将来有望の戸板青年の存在は、藤木さんにとっても誇らしいものだったのかも……と、十年以上もの間ずっと、わたしは思い込んでいたのだけれども、河竹繁俊の「藤木秀吉氏のこと」では、上に抜き書きした箇所の直後に、

遺稿集を編輯された戸板康二さんを紹介してよこされて、慶應出身ではあるが、歌舞伎研究のために便宜を計つてやつてくれとあつて、戸板氏にお目にかかつたのも、藤木さんからのお話であつた。

と続き、なにやら、藤木氏の通夜の前に、すでに戸板康二と河竹繁俊がすでに対面していたともとれるような感じなのだった。その一方で、戸板康二は「藤木さんと先生との交友については、何も知らない。」と突き放す書き方をしている。河竹繁俊のことを語る際に便宜上、そういうことにしたのか、あるいは、河竹の思い違いで、戸板さんの言うとおりに、本当に二人は藤木氏の通夜で対面したのか。一方、『わが交遊記』(三月書房、昭和55年8月)の「河竹繁俊」の項(初出:「歴史と人物」昭和54年12月)には以下のように記されている。

 繁俊博士に初めてお目にかかったのは、父と親しい大先輩で大変世話になった藤木秀吉氏の通夜の時、玄関の受付にぼくがすわっている所に、弔問に見えたのである。
 その直後、早稲田の演劇博物館(略して演博)に行って、廊下を歩いていたら、館長室から博士が出て来られ、ぼくに「小田内さんでしたね」といった。
 人ちがいである。ぼくはちがいます、先夜藤木さんの家でお会いした戸板でございますといったのだが、博士はドギマギされ、「とにかくこっちへいらっしゃい」と誘われた。 学校を出たばかり、サラリーマンになりたての若い者を、館長室に案内して下さったのは、人ちがいの賜物かもしれないが、それからずっと、何かにつけて、目をかけていただいた。
 小田内通久という名前を、その後演劇学会の名簿で見たが、その小田内通久さんとまちがわれたのかどうかは、ハッキリしない。


戸板康二と河竹繁俊の出会いが藤木秀吉の通夜の晩であったかどうかについては疑問が残りつつも、戸板康二と河竹繁俊の出会いは藤木秀吉を媒介にしていた、ということは確実なわけで、戸板康二と河竹繁俊の交友は藤木秀吉がとりもつ縁といえる。藤木秀吉と河竹繁俊、河竹繁俊と戸板康二、その三者の交友の舞台装置は演博だった。



『柳屋』第38号《緊縮の巻》(昭和4年11月15日発行)。表紙:宮尾しげを。三好米吉が経営していた「柳屋書店」、のち「柳屋画廊」の販売目録。昭和5年5月に藤木秀吉は、この柳屋で藤木秀吉は子規の短冊を買ってホクホクしている(『武蔵屋本考 その他』所収「子規の短冊」)。藤木秀吉の遺稿集の編纂をその初七日の日に戸板青年に依頼した友人の茂野吉之助ともども、藤木秀吉は子規の崇拝者で、柳屋の常連だった。と、その販売目録の『柳屋』は単なる目録ではない誌面が「モダン大阪」という観点で見どころたっぷり。そして、この昭和4年の号では1頁分、演博の広告が掲載されていて「演劇博物館の為めに此の頁を提供」というふうに書かれている。演博開館一周年の頃、藤木秀吉が演博になじみ始めたのとまさに同時期の『柳屋』。演博と柳屋が大好きだった藤木秀吉を象徴するような感じがして、嬉しい。



(※以下、次号。)


# by foujita_kanako | 2012-05-20 21:41 | 年譜の行間
2012年 04月 03日
矢野誠一さんの新刊エッセイ集『昭和の東京 記憶のかげから』を繰って、東横ホールと戸板康二をおもう。
先日、ふらりと立ち寄った教文館で、矢野誠一さんの新刊を発見して、ワオ! と手に取って目次に目を通すと、近年にいろいろな媒体に寄稿したエッセイ、追悼文等を編んで一冊の本になったもので、事前に刊行をまったく知らなかったので、思わぬタイミングで贈り物が舞い込んだような感覚。矢野誠一さんの文章をまとめて読むことができるなんて、こんな嬉しいことはない……と、もちろんすぐさまガバッと購入したのだったけど、矢野誠一さんのエッセイ集をウキウキと買って、ホクホクとページを繰ってゆくこの感覚はまさしく、戸板康二の三月書房で定期的に刊行されていたエッセイ集を手にしているのとまったくおんなじかもとしみじみ思った。矢野さんのエッセイ集を繰ると、かならずところどころで戸板康二の名前に遭遇するのが嬉しくてたまらなくて、前に読んだことがある挿話でも、新たに別の文章で読むと違った感興を得たりする。と、こんなところも、往年の戸板康二のエッセイを読んでいるのとまったくおんなじ感覚!



矢野誠一『昭和の東京 記憶のかげから』(日本経済新聞出版社、2012年3月22日)。装画:あべゆきえ、装幀:赤谷直宣。



矢野誠一さんの新刊『昭和の東京』でひときわ胸にしみたのが、「芝居の後に」(初出:『Ripers』2004年夏号)というエッセイ。

『文学座五十年史』を引っぱり出してきて調べたら、一九七二年十二月の多分九日のことだろう。水上勉作『飢餓海峡』が東横劇場で上演され、多分九日というのは、その時分の文学座公演の招待日はたいてい初日だったからである。
 この夜、私は初めて戸板康二先生から酒を誘われた。無論、たまたま行きつけの店などで同席して、歓談する機会には何度となく恵まれていたのだが、先生のほうから誘われたのは初めてだった。たしかイサム・ノグチのデザインという、ぶ厚いドンゴロス地の緞帳がゆっくりおりて、大きな拍手につつまれた客席が明るくなると、隣の席の先生のほうから、
「こういういい芝居を観たあとは、やはりお酒をのみながらはなしをしないといけないね」
 と声をかけられたのである。いい芝居というほめ言葉は、即ち太地喜和子の素晴らしさでもあることはすぐにわかった。
 これだけはっきり覚えていながら、肝腎の酒席が当時演劇人のたまり場の感を呈していた、四谷のFまで車をとばしたのか、あるいは線路沿いのどぶ川を埋め立てたところにあったおでん屋のとん平か、それとも円山町のなんとかいう小料理屋まで歩いて行ったのか、そこらあたりの記憶は曖昧である。いずれにしてももう三十二年前のはなしで、私は三十七歳、忠臣蔵討入の日が誕生日だった先生は五十七歳を目前にしていたことになる。私もあのときの先生の年齢を、もちろんとっくのむかしにこえてしまった。

という書き出しを目の当たりにしたときは、しみじみするあまりに、本から目を離して、しばし放心してしまった。そして、おもむろに本棚から『文学座五十年史』を取り出すのだった。



『文学座五十年史』(文学座、昭和62年4月29日発行)より、水上勉作・木村光一演出『飢餓海峡』の舞台写真。太地喜和子(杉戸八重)と樽見京一郎(高橋悦史)。「文学座創立35周年記念公演」と銘打った公演で、初日は小浜市文化会館、昭和47年10月30日。東京公演は東横劇場、12月9日初日21日千秋楽。キャー、わたしの大好きな悦史が樽見京一郎だったのね! 矢野さんは特に言及していなかったけど! などと『文学座五十年史』を眺めて、興奮は続く。太地喜和子と高橋悦史の共演というと、森本薫の『華々しき一族』の映像をまっさきに思い出すけれども、わたしは山本薩夫の『皇帝のいない八月』の二人が大好き。



と、昭和47年12月の文学座の『飢餓海峡』のこと、その会場の東横劇場のこと、今はなき数々の酒場のこと……といった諸々の事柄の融合としての、矢野さんが初めて戸板康二に酒席に誘われたときの回想シーンに重層的にうっとりしていたのだけれど、今回の新刊とまったくおなじように、発売と同時にガバっと買ってホクホクと読みふけっていた『舞台人走馬燈』(早川書房、2009年8月)の「太地喜和子」の項にもまったくおなじエピソードが実は登場している。二度三度必ず読んでいるはずなのに、すっかり忘れていたのであった。この調子では、矢野さんのそれ以前の本にも何度も登場しているエピソードであるのは間違いあるまいのに、今回の新刊の『昭和の東京』で急にグッとなったのはなぜだろう。不思議である。今回の新刊も、のちのち読み返すとまた違うところでグッとくるのかも。


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戸板康二とその時代を語る上で、東横ホール(東横劇場)はとても重要なのだった。東横ホールは、現在の東急百貨店東横店の西館の9階から11階にかつてあった劇場で、昭和29年11月20日、西館が開館した翌月の12月にさっそく、「第1回東横歌舞伎」が上演されている。《澁谷東横新館増築記念 松竹東横第1回 市川猿之助劇團・尾上菊五郎劇團若手歌舞伎初興行》と銘打って、昼の部は『神霊矢口渡』『男女道成寺』『新版歌祭文』『小栗栖の長兵衛』、夜の部は『本朝廿四孝』の「十種香」と「謙信館」、『棒しばり』『心中万年草』『辨天娘女男白浪』が上演、八百蔵・田之助・芦燕・半四郎・菊十郎・大川橋蔵・菊蔵・松蔦・秀調といった顔ぶれ……と、取り急ぎ「歌舞伎公演データベース(http://www.kabuki.ne.jp/kouendb/)」を参照。


昭和29年12月の上記歌舞伎興行の翌月、昭和30年1月には文学座の『シラノ・ド・ベルジュラック』が上演されている(4日初日、12日千秋楽、シラノはもちろん三津田健!)。以降、新劇が上演されるとともに歌舞伎興行、いわゆる東横歌舞伎の舞台でもあり、それから東横落語会も開催されていた、昭和60年7月14日をもって閉館した東横ホール(東横劇場)は戦後の演劇人戸板康二を体現するような存在であったと言っていいかも。
 
 渋谷の東横ホールで、三代目市川左団次と七代目中村芝翫(当時福助)の二人で、チェホフの「犬」を出し物にした。
 久保田万太郎さんがいった。
「渋谷で犬なんていうと、ハチ公の芝居だと思やしないかな」
 同じ東横の劇場で、劇団民芸が木下順二さんの「冬の時代」を上演していた。
 ビルの壁に「冬の時代」という垂れ幕が下った。荒畑寒村さんがそれを見て、ふと目をわきのほうに遣ると、
「冬物大売り出し」
 この垂れ幕を、俗にフンドシというのだが、日経ホールで、劇団雲が小島信夫さんの「一寸さきは闇」という脚本を上演していた時に見にゆくと、フンドシに、
「一寸さきは闇・雲」

と、『ちょっといい話』(文藝春秋・昭和53年1月→文春文庫・昭和57年8月)を繰ると、さっそく「東横ホール」が登場している。戦後の歌舞伎史と新劇史、落語史を彩った劇場・東横ホール。東横ホールという劇場がかつてあった。



劇団民藝公演、木下順二作・宇野重吉演出『冬の時代』のチラシ。東横ホールで昭和39年9月3日初日、22日千秋楽。日経ホールで同年11月2日初日、14日千秋楽。滝沢修が堺利彦、小夜福子が堺夫人、鈴木瑞穂が大杉栄、芦田伸介が荒畑寒村、山内明が橋浦時雄に扮しているという、古本好きにはたまらん舞台だ! 荒畑寒村の「冬物大売り出し」発言は、本作品上演時の『民藝の仲間』76号所載の座談会ですでに披露されている。戸板さん、この座談会で拾ったエピソードかな?



そして、「東横歌舞伎」といえばまっさきに思い出すのは、戸板さんが序文を書いた『紫扇まくあいばなし』(演劇出版社、昭和62年4月)という名著を残した、「渋谷の海老様」こと三世河原崎権十郎……と言いたいところだけれど、わたしは市川門之助のことがまっさきに頭に浮かぶ。戸板さんにとって東横歌舞伎の舞台である東横ホールは、往年の松蔦=門之助とともに思い出す「思い出の劇場」だったのではないかなと思う。



『わが人物手帖』(白鳳社、昭和37年2月25日)に掲載の「市川松蔦」の写真。市川門之助は、昭和21年8月に三代目松蔦を襲名し、『わが人物手帖』の刊行と同月の昭和37年2月に七代目門之助となった。この本のあとがきには《この本では、わざと旧名のままにしておく》という一節がある。『百人の舞台俳優』(淡交社、昭和44年5月13日)でも《門之助というのはむろん悪い名前ではないが、前名の松蔦もなつかしい。》というふうに書いている。戸板さんはよほど「松蔦」に愛着があったらしい。門之助になった年の9月に、東横ホールで『唐人お吉』が上演された。昭和4年の『唐人お吉』の二代目松蔦のことを愛着たっぷりに回想していた戸板さんにとって、「三代目松蔦」によるお吉は嬉しい舞台だったに違いないけど、それでも、松蔦の名前で演じてほしかったという心残りがあったのかも。


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という次第で、戸板康二とその時代を語る上で東横ホール(東横劇場)はとても重要であるということを、あらためて心に刻んだ記念に、以下、東横ホール(東横劇場)にまつわるメモ。戸板康二と1950年代渋谷に思いを馳せてみたい。


前述のとおり、東横ホールは、昭和29年11月20日に華々しく開館した東横百貨店西館の9階から11階にかつてあった劇場で、昭和42年に「東横劇場」に名称を変更(同年9月29日に東横百貨店は現在の「東急百貨店」に商号を変更し、同年11月1日、東急百貨店本店が現在の場所に開店しているので、それに伴う名称変更と思われる。)、昭和60年7月14日をもって閉館した(前年6月に「東急文化村」の建設が始まっていた。)。


『東京急行電鉄50年史』(東京急行電鉄株式会社、昭和48年4月18日発行)によると、創立30周年復興事業として、戦前からある「玉電ビル」(昭和14年に鉄鋼統制令により4階までで工事中断)の名称を昭和26年11月26日に「東急会館」と変更して、戦前からの懸案だった増築が決定。翌27年に「東急会館建設委員会」が設置され、昭和29年11月1日の東横百貨店開業二十周年記念日に完成披露を目指したものの、諸々の準備に時間がかかり、工事の着工は昭和28年10月28日となり、わずか1年間の工期となってしまったという。目標としていた11月1日は間に合わなかったものの、昭和29年11月15日に工事が完成、同月20日から「東横百貨店西館」として開館した(設計:坂倉準三建築研究所、施工:清水建設株式会社)。



『工事年鑑 1945-1955』(清水建設株式会社、昭和30年1月10日発行)より、東横百貨店西館完成直後の渋谷駅前の風景。今も渋谷駅前でおなじみの、銀座線の線路の上にそびえたつ丸みを帯びた大きな建物が東急会館、現在は東急百貨店東横店の西館。この9階から11階部分にかつて「東横ホール」という劇場があった。



『東急會館』(東京急行電鐵株式会社、昭和29年11月15日発行)。A4判約70ページの、東急会館竣工直後に編まれた記念アルバム。出来立てほやほやの外観および内部の写真を中心に、工事中の写真、内部の案内図、空中写真等がふんだんに掲載されている。戦後から高度成長に差しかかろうとしている「1950年代東京」を象徴するかのような美しい写真が満載。今は古びているだけの東横店西館が当時いかにスタイリッシュで、モダンだっかがひしひしと伝わってくる。東横ホール(東横劇場)の一級資料でもある。



『東急會館』に、折込図版として掲載されている航空写真。上下に国鉄の、左右に地下鉄銀座線の線路が直角に交わる渋谷駅。周囲に高層の建物がほとんどなくて、渋谷駅に東横百貨店の建物が威風堂々とそびえたつ。「東急会館」すなわち「東横百貨店西館」の3階部分に地下鉄の線路が貫通していた。東横ホールの最大の課題はいかにその騒音を防ぐかにあった。『東京急行50年史』には《東横ホールの防音については、営団の協力により3階の銀座線のレールとまくら木との間に弾性帯を挿入して、電車の振動と騒音が伝わるのを防いだ。》という記載があり、『東京の建築』(社団法人東京建築士会、昭和33年7月20日)には、《このビルの中心部を貫通する地下鉄の影響を、音響上どのように処理するかに、最も苦心が払われたわけで、防振ゴムの助けをかり、フローティング床・壁およびハンギング天井をつくって振動をきりはなした》というふうに書かれている。権十郎の『紫扇まくあいばなし』によると、それでも電車の音がホールに響いてしまっていたという。



東急会館の断面図。8階が大食堂で、9階から11階が「東横ホール」。3フロアが吹き抜けになっていて、客席前方が9階、後方にゆくにしたがって客席は傾斜し、最後尾は建物の10階部分、ステージと客席双方の天井は11階の天井で、その上が屋上となっている。右側の曲線部分が劇場の最後尾で、この曲線部分に沿うようにして、ロビーがあった。国鉄の線路に向かうようにして客席が設置されている。すなわち、東横ホールは銀座線の線路の真上に位置しているのだった。



東横ホールの断面図。上掲の西館断面図を180度回転させて、右が舞台。客席は後方にゆくに従って傾斜、9、10、11階吹き抜け。赤い床と青い客席のコントラストがいかにもミッドセンチュリーという感じがして、イサム・ノグチの緞帳がよく似合う。






東横ホールのロビー。この写真は客席前方、すなわち9階部分のロビーで、客席後方部のロビーへの階段が設置されている。つまり、ロビーの天井の傾斜がそのまま客席の傾斜となっている。上段ロビーへの階段の下にあるもう一つの階段の向こうには劇場用のトイレがあり、このトイレの真上が10階部分のロビーとなっている。上段ロビーは東急会館の建物の曲線に沿っていて、窓から外をのぞむことができた。上段ロビーの上手側に喫煙室が設けられている。下段ロビーの下手側に劇場専用の食堂があった。客席後方部の傾斜の真下の一部がクロークがになっていて、下段ロビーにその受付があった。



オーケストラピットから客席全体をのぞんだ写真。座席総数1002人、客席面積680.0㎡。



客席上段部。



その上段部より舞台をのぞむ。



上掲の矢野誠一さんの文章に《イサム・ノグチのデザインという、ぶ厚いドンゴロス地の緞帳がゆっくりおりて、大きな拍手につつまれた客席が明るくなると……》というふうに書かれていた、イサム・ノグチデザインの緞帳は《 "No end"「無窮」》と題されていた。



『東急會館』にはもう1種類緞帳が紹介されていて、こちらは《太閤秀吉が醍醐の花見に用いたという幔幕を主題に野口真造氏が製作した緞帳》。



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『東急會館』(東京急行電鐵株式会社、昭和29年11月15日発行)を眺めて、東横ホール(東横劇場)のあった時代に思いを馳せたところで、むしょうに現在のその場所に行ってみたくなった。東急百貨店東横店は、昭和9年11月に東京初の鉄道会社直営のターミナルデパートとして開業した東横百貨店の建物、東横線改札につながっている「東館」に、昭和29年11月竣工の東横ホール(東横劇場)があった「西館」、昭和45年10月1日に営業を開始した国鉄の線路の真上に位置する「南館」、以上3つの建物が接ぎあわされて、現在の姿となった。



と、その昭和45年竣工の「南館」屋上から、かつて東横ホール(東横劇場)のあった「西館」の9階から11階あたりをのぞむ。屋上の真下から11階、10階、9階というふうになり、他のフロアと比べると、10階と11階の天井の高さが明らかに低いことが伺える。



あの場所に行ってみたい! と「西館」へ走って、8階から9階へといたる階段は不自然に天井が低い。この小さな窓は竣工時そのまんま! 現在9階は食堂街で、10階はあるけど、11階の表示は存在しない。8階の催事場(東横ホールがあった当時は大食堂だったフロア)は毎年8月に開催の古本まつりでおなじみの場所だということにやっと気づいた。今まで特に気にとめたことはなかったけれども、今度の夏の古本市の際には、この上の階にかつて東横ホール(東横劇場)があったということに思いを馳せたいものだと思う。



『東京の建築』(社団法人東京建築士会、昭和33年7月20日)に掲載の、東急会館の《西側の壁面構成》。地上11階43メートル、時計台頂上までは60メートル、この本の刊行時は東京最高のビルだった。



ぜひとも『東京の建築』のかっこいい写真の真似をしたい! と、真似して撮影。いくぶん補修がほどこされていても、西館の大きな特徴だった四角の窓の壁面構成と屋上の煙突は竣工時とまったく同じ。さきほど、8階から9階へいたる階段にあった窓はどの窓かな?



そして、玉電はなくなってしまったけれども、渋谷駅前には今も昔もたくさんのバス停留所がある。戸板さんの住んでいた洗足と渋谷駅をつなぐバス路線は健在で、現在は JR の線路をはさんだ向こう側の東口にその停留所がある。『ハンカチの鼠』(三月書房・昭和37年11月→旺文社文庫・昭和57年8月)所収の「峠」というエッセイに以下のくだりがある。

 雲仙から長崎に出るバスが、長崎の市外に入る直前の峠もたのしい。山道が一瞬、都会の道に変るわけである。いまぼくの住んでいる町から渋谷へゆくバスが、代官山をぬけて並木橋の長い陸橋にかかるところの感じが、長崎のあの道と似ているので、乗って通るたびに旅情がそそられる。

戸板さんは渋谷へはバスに乗ってゆくことが多かったようだ。この文章は「西日本新聞」に昭和37年2月から4月にかけて連載されたものなので、まさに、三代目松蔦が七代目門之助になったばかりの頃の文章。東横歌舞伎の招待日にバスに乗って出かける戸板さんの見た、昭和歌舞伎の一側面に思いを馳せる。



# by foujita_kanako | 2012-04-03 21:57 | 日日雑記
2012年 03月 18日
戸板康二の明治製菓宣伝部時代:『チョコレートと兵隊』にまつわるメモ。
先日、神保町シアターの高峰秀子特集で、長年の懸案だった『チョコレートと兵隊』を見ることができた。とにかくも、やっと実見できた喜びが第一。その記念に、以下、『チョコレートと兵隊』の覚書とともに、戸板康二の明治製菓宣伝部時代にちょいと思いを馳せてみたい。

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戸板康二は明治製菓宣伝部に入社したのは、昭和14年4月。『句会で会った人』(富士見書房、昭和62年7月20日)所収「大森の良夜会」の第2回のところに、以下のくだりがある(初出:『俳句研究』昭和61年2月号)。

 私の入社する前年に、東宝映画が作った「チョコレートと兵隊」という作品があった。これは大陸に行っていた桐生の兵士が、日本にいるひとり息子のために、慰問袋にはいって来たチョコレートの包装紙を明菓に送り返し、抽選で何かの商品を送ってくれとたのんで来たので、朝日の特ダネになった。見出しは映画と同じで、火野葦平の「麦と兵隊」「土と兵隊」という当時のベストセラーの題名をもじったものだ。
 これが映画化されて、大変な評判になり、競争していた森永がくやしがったという余談もあるが、この映画を持って、戦傷兵の病院をまわって映写するための車までこしらえ、宣伝部の一隅にその映写技師と運転手の席も設けられていた。

佐藤武演出の東宝映画、『チョコレートと兵隊』の封切は昭和13年11月30日。大阪朝日新聞の新聞広告には、11月30日に梅田映画劇場、東宝敷島劇場、新世界東宝劇場、大阪地下劇場、京都宝塚劇場、神戸阪急会館で「六日迄上映」とある。以後、順次全国で上映、日劇では12月11日を初日に同月21日まで、滝沢英輔『武道千一夜』と益田義信演出のレヴュウ『タバコ・レビュウ』とともに上演されている。『明治製菓四十年小史』(明治製菓株式会社、昭和33年10月)所収の年譜では、映画の完成日は11月10日とされている。


映画のもととなったエピソードが「東京朝日新聞」の社会面に大きく掲載されたのは、昭和13年9月8日朝刊だった。その美談記事では、明治製菓の社名こそ出ていなかったが「チョコレートと兵隊」という言葉はすでに記事の見出しに使用されている。戸板康二の書くとおりに、それは「麦と兵隊」や「土と兵隊」のもじりなのだけど、オスカー・シュトラウスの『チョコレートの兵隊』というオペレッタもあることだし、もともと「チョコレート」と「兵隊」という言葉は意外にも、互いに結構なじみやすい単語だったのかも。明治製菓の社名が出ていないこの記事では、《製菓会社の宣伝部長も十七歳の長男を持つ年齢になつて、宣伝といふ仕事が辛くなりましたと涙を溜めて……》というふうに内田誠がその名こそ出ていないもののしっかり登場している。明治製菓宣伝部は全国的な反響を巻き起こしたこの美談記事を好機とし、内田誠宣伝部長と東宝映画とがタッグを組み、エピソードをふくらませてホームドラマとして映画化したわけだけれども、そもそも明治製菓側が東京朝日新聞に提供した「美談」だったという可能性もありそう。ま、いずれにせよ、『チョコレートと兵隊』という映画は、ニュース映画と製菓会社の宣伝の融合という点で、戦前日本映画の「資料」としてかなり興味深い代物なのだった。



札幌東宝映画劇場のプログラム《東宝ニュース》(昭和14年1月15日発行)の次週予告の『チョコレートと兵隊』。ちなみにこの週にこの館で上映されていたのは、伝次郎の丹下左膳の悪名高い東宝版『丹下左膳大会』(演出は前篇が渡辺邦男、後篇が山本薩夫)と伏見修『軍港の乙女達』(堤真佐子主演)。



『明治製菓40年小史』(明治製菓株式会社、昭和33年10月9日)より、《百点賞付のチョコレート》。東京朝日新聞の記事では《ほんの思ひつきの懸賞宣伝が生んだ意外な結果》と紹介されていた「百点賞付チョコレート」がむすぶ父性愛、
昭和11年7月、チョコレートのレーベルを利用しての百点賞付売出しが開始されたが、この百点賞をめぐっての、前線と銃後をむすぶ父性愛の記事が朝日新聞に掲載されると、この佳話は「チョコレートと兵隊」として映画やレコードにより全国に紹介され明治チョコレートはいっそうの人気を呼んだこともあった。
というふうに、同書では解説されている。



《本社社屋前の発声映画自動車》、同じく『明治製菓40年小史』より。上掲の戸板康二の文章にある「この映画を持って、戦傷兵の病院をまわって映写するための車」とは、この車のことかな? 『明治製菓40年小史』によると、この「発声映画自動車」の完成は昭和13年7月。《当社は早くから有力映画会社とタイアップして、映画作品の製作、および社品の宣伝に力を入れてきたのであるが、昭和13年7月には、当社みずから発声映画自動車を完成し、優秀な機動力を利用しての宣伝活動に新機軸をひらいた。》という。



『チョコレートと兵隊』については、『明治製菓40年小史』では映画とレコードの紹介にとどまっているけれども、昭和14年6月5日には紙芝居として発行されている(作・画ともにクレジットなしだが、作は国分一太郎とのこと。発行は日本教育紙芝居協会)。鈴木常勝著『戦争の時代ですよ! 若者たちと見る国策紙芝居の世界』(大修館書店、2009年6月)に、『チョコレートと兵隊』の紙芝居が全図版紹介されていて、この画像はカラー口絵に掲載のラスト(21枚目)の図版。《「本当にやさしいお父さんでしたよねえ。でも、今は靖国神社にいるのですよ。お前たちもお父さんに負けないように立派な人になるのですよ」》。桐生に住む母と子供ふたりが渡良瀬川に立つ。映画でも印象的に映し出されていたワーレントラスの鉄橋が丁寧に描きこまれている。



と、『チョコレートと兵隊』の紙芝居のことをふと思い出したところで、なんというグッドタイミング、昭和館(http://www.showakan.go.jp/)にて特別企画展《昭和の紙芝居~戦中・戦後の娯楽と教育》の開催が始まり、イソイソと出かけてきた(会期は3月17日から5月13日まで)。加太こうじの名著『紙芝居昭和史』(立風書房・昭和46年7月→岩波現代文庫)が立体化したような展示に大興奮! 展覧会場には表紙と奥付、中身が2枚の計4枚展示されていた『チョコレートと兵隊』の紙芝居が、図録には前述の、鈴木常勝著『戦争の時代ですよ! 若者たちと見る国策紙芝居の世界』と同じく、全図版紹介されているが、前者はモノクロ図版だったのに対し、後者ではすべてカラーなので資料的価値が増している。



というふうに、昭和13年9月に東京朝日新聞に紹介された「チョコレートと兵隊」の美談は、昭和13年11月に映画完成、翌月12月にタイヘイ・ビクター両社にてレコード化、昭和14年6月には「国策紙芝居」として発行されたという次第だった。『チョコレートと兵隊』を実際に見てみると、子供たちに大人気の紙芝居屋(横山運平)が印象的に登場する。子供たちが桐生の原っぱで目をランランと輝かせて凝視するのは、そのものずばり「国策紙芝居」であった。『チョコレートと兵隊』に思いを馳せるということは、国策宣伝に思いを馳せるということでもあり、その重要な道具のひとつが紙芝居だった。加太こうじ著『紙芝居昭和史』にも、『チョコレートと兵隊』の紙芝居がしっかり登場。
 教育紙芝居研究会は、教育関係の松永健哉と、劇作家青江舜二郎と、唯物論研究会関係の宗教学者佐木秋夫によって設立された。昭和十二年七月の日中戦争にともなう慰問袋を兵隊さんに送ろうという運動に一役買って、明治製菓を後援者にした『チョコレートと兵隊』という印刷紙芝居を作ったのが、教育紙芝居研究会のきっかけになったといわれている。
とのことで、以後、教育紙芝居協会は国策宣伝の紙芝居を作って印刷して販売する会社として続いてゆく。また、日中戦争後の昭和12年年末に誕生した紙芝居会社である大日本画劇株式会社には、森永と明治の製菓会社も株主として一枚加わっていたという。


とかなんとか、『チョコレートと兵隊』から話はとめどなく広がってゆくのだけれど、戸板康二が明治製菓宣伝部に入社する前年の昭和13年に始まった『チョコレートと兵隊』について概観してみると、戸板康二が明治製菓で「宣伝」の仕事に従事していた昭和14年4月から昭和18年6月という年月は、まさに「国策宣伝」と表裏一体の時期だったのだなあということを生々しく実感するのである。


□


戸板康二の明治製菓宣伝部時代の思い出として、「ちょっといい話」シリーズにも、『チョコレートと兵隊』は以下のように登場している(『新ちょっといい話』)。
 
 大陸で戦争がはじまったばかりのころ、慰問袋が前線に送られると、中にはいっているチョコレートの包み紙のマークを二十集めると何、五十集めると何といったふうに、景品と引きかえになるのを、一兵士が知った。
 桐生にいる自分の子供のために、その兵士は、部隊の仲間にたのんで、包み紙を貰い、それを明治製菓の本社に送って来た。
 この話を聞いた朝日新聞が、父性愛の美談として記事にし、見出しを、「チョコレートと兵隊」とした。
 火野葦平さんの「麦と兵隊」を、もじったわけである。
 さっそく、東宝がこの話を映画にすることになり、桐生にロケーションに行った。
 その兵士の息子は、眉目秀麗な少年であった。映画に出る少年よりも美しかった。
 ロケについて行った映画記者が、まちがえて、子役でない少年をとりまいて、インタビューをはじめた。
 宣伝部員だったぼくは、某日、「チョコレートと兵隊」のフィルムを持って、下田の海軍病院に慰問に行った。
 映画がおわると、院長が、患者たちのまだいる時に、挨拶した。
「本日は森永製菓の方々の御好意で」とはじまったから、舞台に飛び上って、「明治製菓です」というと、
「もとい、明治製菓の方々の……」

 映画でも紙芝居でも、チョコレートの包み紙は前線の父からいったん桐生の少年にどっさりと届いて、それを少年が明治製菓に送っていたが、新聞記事では、父が直接明治製菓に「子供に送ってやってくれ」というふうに包み紙を送ったとのことである。内田誠が『チョコレートと兵隊』について綴った、『東宝映画』昭和13年11月上旬号に掲載の「秋風帖」と題された文章によると、新聞記事になった齋藤一等兵以前にも何度か、同じような前線からの手紙があったという。明治チョコレートの百点賞のキャンペーンが始まったのは昭和11年7月、まさに事変と時を同じくしていたのだった。




『東宝映画』昭和13年11月上旬号、内田誠「秋風帖」のページに掲載の写真、《齋藤家の門口で前右から未亡人、智恵子さん、和夫君、御母堂、後列、物語を演出する佐藤武、内田誠氏、製作者氷室徹平、近所の蔭山薬店主人、未亡人の弟さん》。
 
 我々は好く晴れた秋の初の日曜に、桐生の齋藤氏の遺族を訪問した。同行は東宝映画の佐藤武、氷室徹平、石川秋子の諸氏であつた。
 桐生新宿といふ町は、をりからの秋の日のやうに、静かな広い通りだつた。そのはづれには、市をかこむ山々が、間近にみえてゐた。通りの両側の、悉くが一抱えもありそうな巨石のなたむだ溝には速い流れが音をたてゝゐた。瓦屋根の古風な一軒の床屋の角に、「戦死者齋藤辰次郎宅入口」といふ立札があつた。我々はなほそこから奥へ、二曲りほどして、齋藤氏の一の前に立つた。

というふうに、秋のはじめに明治製菓と東宝映画の関係者が桐生を訪問している。昭和13年9月8日に東京朝日新聞に「チョコレートと兵隊」と題した記事が載ってすぐさま映画化が決定した様子が如実に伺える。



同じく、内田誠「秋風帖」のページに記載の写真、《相生の故齋藤一等兵の家》。映画化に際しては、「齋藤」が「齋木」となったりの変更がほどこさおれつつも、一家の住まいは映画でも桐生に設定されていて、その渡良瀬川の河岸とワーレントラスの鉄橋が映っているのが嬉しかった。一家の住まいはセットだけれど、家の近所を歩いているシーンなどはロケ撮影、以前に桐生の町を歩いたときの小川によく似た風景が映って、懐かしかった。セットも上の写真の民家そのまんまのムードだった。



同じく、内田誠「秋風帖」のページに記載の写真、《自転車の稽古をする和夫さんと眺めてゐる佐藤監督》。戸板康二が「ちょっといい話」で「眉目秀麗な少年」と書いていた齋藤一等兵の長男和夫君と佐藤武監督。『チョコレートと兵隊』は昭和13年年末より全国で順次封切られて、年が明けて、『東宝映画』昭和14年1月下旬号では、演出(東宝では1950年代まで「監督」ではなくて「演出」と表記)を担当した新人監督佐藤武に、彼が松竹在籍時に師事していた島津保次郎と五所平之助が映画の感想を伝えるという趣旨の座談会が掲載されている。出征前夜にお父さんの藤原釜足が一人で起きて煙草を吸っている場面を褒める島津保次郎。それから、
子供の鏡台を直してやるなんてのもいいね。天窓を直す時、一寸芝居をするんですね。あゝいふのは、平易にやればやるほどくるよ。玩具箱を出して、チヨコレートの袋をみせる、あそこいらは巧いよ、断然!
というふうに、後輩をたてる島津保次郎。



その後の『東宝映画』でも、昭和14年6月下旬号が脚本を担当した鈴木紀子の「お裁縫箱のチヨコレート」、同年8月上旬号に明治製菓の本社勤めの社員役を演じた霧立のぼるの「凉風ひとゝき」、同年9月上旬号にお母さん役を演じた沢村貞子の「子供の頃」……というふうに、明治製菓の広告と同じページに『チョコレートと兵隊』の関係者によるエッセイが掲載されている。




『映画評論』昭和14年1月1日発行(第21巻第1号)。『チョコレートと兵隊』のシナリオが全文掲載されているこの号は、山中貞雄追悼記事の掲載号でもある。山中貞雄の戦病死は昭和13年9月17日、「チョコレートと兵隊」の記事が東京朝日新聞に載った直後のことだった。「チョコレートの兵隊」のお父さんも山中貞雄も、事変を引き金に応召され命を奪われて、残された者はたいへんな悲しみを味わったという点でまったくおなじ。ちなみに、山中貞雄追悼コーナーでは、山中貞雄の遺稿として「気まゝ者の日記」(初出:『映画評論』第17巻9月号)の転載のあとに、大塚恭一「山中貞雄を想ふ」、宮川雅青「山中氏を想ふ」、岩田専太郎「山中貞雄君」、筈見恒夫「山中貞雄の純粋性(講演草稿)」が掲載。山中の遺文は『山中貞雄作品集 全一巻』(実業之日本社、1998年10月)、追悼文は千葉伸夫編『監督山中貞雄』(実業之日本社、1998年10月)にすべて翻刻されている。



『映画評論』昭和14年1月号の口絵に掲載の、『チョコレートと兵隊』のスチール。右から、高峰秀子(印刷屋の娘・茂子)、若葉きよ子(齋木達郎の娘・千代子)、藤原釜足(齋木達郎)、小高まさる(齋木達郎の息子・一朗)。齋木一等兵の妻、子供たちのお母さんを演じたのは沢村貞子で、私生活そのまんまに夫婦役を演じた釜足と沢村貞子。二人とも小市民の夫婦をたいへん好演していて、少年役の小高まさる、映画に花を添える高峰秀子等々、役者の顔ぶれもなかなかよかった。わたし的には、明治製菓専務役の汐見洋とタイピスト役の霧立のぼるが嬉しかった! 明治製菓本社ビルでのロケがなかったのは残念。



その『映画評論』昭和14年1月号では、当時の多くの雑誌と同じように、森永製菓と明治製菓の広告合戦が見られるのも嬉しいところ。


□


当時の映画評の一例として、『映画朝日』第16巻第2号(昭和14年2月1日発行)の「試写室雑話」より全文抜書き。

 貧しい職工が出征して、戦地から家郷の子供にチヨコレートの包み紙を送つた――といふ東朝のニユースを脚色した、所謂際物映画である。新人佐藤武の演出は、幼稚で稚拙だが、虫の喰つてゐない水蜜桃のやうな甘さと新鮮さと素直さがある。主人公出征前夜の光景を描くに、深夜起き出でゝ、壊れた玩具を修繕する主人公を点出したあたり、ホロリとさせられた。そこに妙な誇張がなく、妙な技巧をこらさず、新人の素直な息吹きを感じさせる。よいペーソスだ。と、一応賞めて置くが、後半チヨコレート会社の重役や美しいタイピストを点出して、いやにセンチに事件を運ぶなんて、浪花節ぢやあるまいし、下手なつくり事は見苦しい。主演の藤原釜足は、何時ものやうなチヨコチヨコ動きたがる三枚目でなく、神妙につとめて、恐らく彼のスクリーン入り以来の好技を示した。どんな役者だつて使いやうによつては生きるものだ。
 それにしても十三年度の東宝は、芸術的にも興行的にも成功したのはこの作と『綴方教室』の二本きり、後は東京発声やエノケンやロッパや前進座による他力である。製作企画の無能をさらけ出したものだ。




『映画朝日』第15巻第10号(昭和13年10月1日発行)の見返しに掲載の「明治キヤラメル」の広告。《この絵は(東宝映画)高峯秀子さんの作品です》とある。『チョコレートと兵隊』の撮影と同時期の明治製菓の広告。『私の渡世日記』によると、高峰秀子は11歳から13歳の時期にライオン歯磨と明治製菓の広告に登場、明治製菓の広告写真撮影の際には、当時宣伝部にいた藤本真澄青年が宣伝写真の撮影現場にちょくちょく居合わせていたという。藤本真澄が明治製菓宣伝部嘱託を退き、森岩雄の誘いで P.C.L. に入るのは昭和11年の暮れのこと。


# by foujita_kanako | 2012-03-18 21:56 | 年譜の行間
2012年 03月 11日
戸板康二と新劇史の人びと:戸板康二と滝沢修の歳月に思いを馳せる・その2
子どもの頃からの芝居好きだった戸板青年が新劇に出会うのは、昭和7年、慶應義塾予科に入学以降のこと。戸板青年の心をまっさきに揺さぶったのは飛行館の築地座の田村秋子だったようであるが、昭和9年に新協劇団が旗揚げされると滝沢の演技に心酔するようになる。昭和30年の『演劇人の横顔』ではそういった「自分語り」的なことをしていないのだけれど、昭和43年の『ヴェニスの商人』のプログラムでは、
 
大学時代に、新協劇団の『夜明け前』を見て、その青山半蔵の演技に心酔させられた。日本の新劇史の上で、昭和九年あたりから臨戦体制にはいってあの不幸な昭和十五年が来るまでの数年間は、いく人かの俳優の中に、「芸」と呼んでいいものが定着しはじめた時期である。そういう中で、滝沢の存在は、ことに目立った。

というふうに、新劇に出会った当時のことを語っているのだけれど、昭和45年の田村秋子を交えた座談会では、もっと生々しく回想されていて、

ぼくが初めて滝沢修さんの舞台を観たのは、やっぱり新協が一九三四年にできて、その旗上げ公演の「夜明け前」からなんですけど。昭和九年というと、ぼくが慶応の予科の三年で、友田(恭助)さん、田村さんの方の築地座もありましたしね。それから、新協では滝沢さん、新築地の丸山(定夫)さん、山本(安英)さんというような今から思うと一種の新劇の黄金時代みたいな気がするんですよ。それに特にやっぱりぼく自身の歴史からいうと、子供の時分から親に連れられて観た歌舞伎や新派以外の芝居を、今度は自分で、自分の小遣いで観に行く、そして、そういう全く違った芝居に眼が開くという時期にあったわけですからね。だから観る芝居、観る芝居、よく憶え観る吸収の仕方でしたね。あの頃になると歌舞伎や何かの批評家がやっぱり新劇の批評を書くようになって来てましてね。そして、本当に新劇の中に、芸というものが確立しつつあるというんで、まあ田村さんの前でおかしいけれど、田村さんの演技も、そういう意味で評価された、それから、滝沢さんの芝居もそういう意味でみられた、ですから、ぼくは新協の「夜明け前」の時から問題にするってことが、滝沢さんばかりでなく、ぼくの新劇の観劇歴です。

読む側にとっても実感的で、座談記事ならではの貴重な証言。戸板康二が新時代の歌舞伎評論の書き手、劇評家として戦後に世に出る技法を獲得したのは、慶應義塾に入学後に新劇を見る習慣がついたことが決定的な影響を及ぼしたことは間違いあるまい。その象徴が「滝沢修」という存在だったといえるかも。



『民藝の仲間』127号、田村秋子・戸板康二・小田嶋雄志「座談会・俳優滝沢修の魅力」のページに掲載の写真。昭和7年に17歳の戸板青年を魅了した田村秋子を交えて語られる、滝沢修とその新劇史。田村秋子の同時代の証言もたいへんおもしろい。



滝沢修が《本当の大きな俳優、グラン・ダクトゥール》として世に広く認められたるようになった時期について、戸板康二はこの座談会で、

ぼくはまあ、新協の「夜明け前」の再演あたりじゃないかと思いますね。「夜明け前」の再演から間もなく、「北東の風」「火山灰地」の初演、ということになりますね。あの頃他の理由もあったんでしょうけども、滝沢修という俳優を主人公にして、こういう芝居を書こうという作家が意欲を燃やす時が来てたわけですね。「北東の風」なら「北東の風」で、久板さんが書く時に、滝沢修の演技ってこと考えて書いている。「火山灰地」を久保さんが書くときもやっぱり滝沢修にこういったせりふを言わせ、言って貰おうと思って書いているんですよ、そう思うな、ぼくは。やっぱりそういう書き方っていうことは、ぼくは、いい脚本が出て来る理由だと思うんですよ。しかし逆に言うと、そういう意欲を燃やすという対象にもすでになっていたということは、たいへんなことです。

と1930年代後半の新劇の充実を語っている。戸板康二が滝沢を語る際に必ず言及するのが、ついそのセリフを真似したくなるということで、『火山灰地』の雨宮博士の場合は、「ノイパウアーを知ってるかね」「地球が廻るとね」のセリフを口ずさんだという。そして、このことを語る際にいつも「ぼくは歌舞伎の声色は使わないけれども……」というふうに、わざわざ断りを入れるのがいかにも戸板康二なのだ。



『火山灰地』の三つ折両面印刷のプログラム。久保栄作・演出『火山灰地』は前篇が昭和13年6月8日から26日まで、後篇が6月27日から7月8日まで、築地小劇場で初演された。裏面は東和映画配給の『第九交響楽』の広告。この映画を戸板康二も見ていた。当時の紙もの資料で体感する「戸板康二の1930年代」がいつもたまらない。



『火山灰地』プログラムのもうひとつの広告は「森永ミルクチヨコレート」。この時期の戸板康二は大学院に進学し、久保田万太郎と初対面した頃。戸板康二の人生が大きく変わろうとしていた時期だった(わたしは久保田万太郎の出会いが大学院中退→明治製菓入社の進路を決意させたとみている。)。



先のハヤカワ演劇文庫の『炎の人』と『セールスマンの死』を読んだあと、滝沢のことで頭がいっぱいになり、あらためてじっくり『火山灰地』を読んで、またもや大きく揺さぶられてしまい、いきなり久保栄のことで頭がいっぱいになって現在に至っている。『火山灰地』はさいわい映像が手元にあって、その昭和36年の第一部の舞台中継をじっくり見て、その新劇の黄金期のありように圧倒されてしまった。滝沢修だけでなく、清水将夫と芦田伸介、信欣三といった顔ぶれもすばらしく(ただし大滝秀治には妙な違和感が…)、俳優の層の厚さというかなんというか、新劇が輝いていた時代に圧倒された。そして、久保田万太郎と出会った時期に初演を見た『火山灰地』の、昭和36年8月9日初日の東横ホールにおける22年ぶりの再演を演劇評論家の確固たる地位を築いた身として観劇している戸板康二の歳月にしみじみであった。そんな戸板康二とその背後の演劇史にしみじみであった。



戸板康二が、滝沢修について語るときかならず言及することが、昭和18年10月帝劇の芸文座旗揚げ公演の武者小路実篤『三笑』のこと。「戦争中の「三笑」」(『悲劇喜劇』昭和55年11月→『見た芝居・読んだ本』)という文章がある。《戦争中という表現を昭和十八・十九・二十年として見ると、ぼくがこのあいだに、新劇でいくつかのいい芝居を見ている。》という書き出しで、「ことに、忘れられない舞台」として、昭和18年10月30日から9日間に帝劇で上演された『三笑』について綴っている。
 芸文座という劇団の初公演だが、ぼくにとっては、あの滝沢修が見られる喜びが、ことに大きかったのだ。
 新協の「夜明け前」や「火山灰地」で何ともみごとな芸を見せた俳優が、昭和十五年夏の劇団に対する弾圧で姿を消してしまったあと、新演技座での演出部にいたという話は、まだ演劇ジャーナリズムにはいっていないぼくの耳にも伝わって来ていた。
 長谷川一夫の「姿三四郎」の時、主人公が池につかっている場面で聞こえる和尚の声が、滝沢だといううわさも聞いて、見に行って、耳を澄ませた。活動を封じられていたその滝沢が久しぶりに見られるということ自体、当時のファンには大きな朗報だった。おそらくいまの若い民芸の仲間の会員には、想像もつくまいが、そんな時代があったわけだ。

ここで言及されている長谷川一夫の『姿三四郎』は、菊田一夫演出で山田五十鈴の雪野、東京宝塚劇場の新演技座公演、昭和18年5月2日初日、26日千秋楽。戸板康二の明治製菓時代の末期で、この年の7月に「円満退社」し、一年間女学校の高校教師をする。そして、『三笑』が上演された時期にちょうど日本演劇社が発足し、『演芸画報』と『東宝』を合併した歌舞伎の雑誌『演劇界』と、『国民演劇』と『演劇』を合併した新劇の雑誌『日本演劇』が創刊、翌昭和19年7月に久保田万太郎の誘いで日本演劇社に入社することになる戸板康二であったが、もちろん当時はそんなことは知る由もなく、一新劇ファンとして『日本演劇』を毎月購入していた。



滝沢修『俳優の創造』(青雅社、昭和23年3月)の口絵より、《「三笑」英次に扮する著者》。



昭和23年初版の増補版で戸板康二が序文を寄せた、『俳優の創造』(麥秋社、昭和57年5月)口絵より、《『三笑』第一幕 清子(中村美穂) 静子(轟夕起子) 野中信一(汐見洋) 野中英次(滝沢修)》。



同じく、麥秋社版『俳優の創造』口絵より、《第二幕 野中英次(滝沢修) 野中信一(汐見洋)》。戸板さんがさかんに口真似した「兄さんの乙姫様は誰ですか」の場面。戸板康二の《画室の場面の照明(遠山静雄氏)があかるくて、そのあかるさだけでも、楽しかった。》という回想がイキイキと実感できる美しい写真。



「戦争中の「三笑」」には、以下のくだりがある。

「三笑」を「久しぶりに米の飯を食べたような気がする」といって喜んだ人と、「ばかばかしい芝居だ」と黙殺した人がいた。東京新聞で安藤鶴夫は、「三笑は私を敬虔にしてくれた。静かな落着いた大人の世界にいざなわれ、よい人間になりたくて仕方がなかった」と肯定し、感動をあからさまにしている。これに対して、毎日新聞の久住良三は、「芸術至上主義的」で「作者の思想も本質的には認められない」「馬鹿笑い、馬鹿踊り」と批判した。論争には発展しなかったが、まだ劇評家になっていないぼくは、新聞というものはいま、こんな形でしか「三笑」を論じられないのかと思って、暗然としたのをおぼえている。

そして、最後にはちょうどこのときに発足した日本演劇社の発刊していた『日本演劇』への言及がある。《大江良太郎の戯曲読後感、菅原卓の劇評がのり、新聞二紙の対立した意見について大井文雄(変名である)が「劇評の混乱」というコラムを書いている。》。



『日本演劇』第1巻第2号(昭和18年12月1日発行)。表紙:伊藤熹朔。この号は、同年10月29日に他界した岡鬼太郎の追悼記事がある(大谷竹次郎、河竹繁俊、三宅周太郎)。岡鬼太郎は日本演劇社の初代社長であったが、発足まもなくに他界してしまった。



前述のとおり、この時期の戸板康二は夏に明治製菓を退社し、女学校の国語教師をしていた。翌昭和19年7月に久保田万太郎の誘いで日本演劇社に入社、『日本演劇』の編集に携わり、戦中戦後を演劇ジャーナリストとして生きることとなる。それまで、歌舞伎に関する文章は書いていたけれど、新劇は戸板康二にとってはあくまで趣味の世界であった。日本演劇社に入社することで新劇が仕事場所となったわけで、昭和18年10月の『三笑』は、戸板康二にとって、仕事と関係なくまったくの趣味として観劇した新劇という意味においても、戸板康二にとって感慨深いものがあったのだろうと思う。のちに、戸板康二は滝沢について、《新劇のどの俳優よりもファンであり、羽左衛門や菊五郎を語るように語るという点で、役者そして芸と、その舞台については表現したいのである。》というふうに書いている(滝沢修『俳優の創造』序文)。戸板康二の青春を考える上で、六代目菊五郎と同様に、滝沢修は欠かせない存在なのだった。



『民藝の仲間』193号(昭和53年6月15日印刷)、武者小路実篤作・滝沢修演出『その妹』上演時(昭和53年6月15日国立劇場小劇場初日)の号。戸板康二と滝沢修の『対談 舞台より愛をこめて』のページに掲載の写真。『その妹』初演のときに(昭和26年3月23日三越劇場初日)、『スクリーン・アンド・ステージ』に劇評を寄稿し、伊藤熹朔の舞台装置に苦言を呈したら、3日後に会ったときに「バカのひとつ覚えっていうのは、おマエさんの批評だよ」と怒られたというくだりがある。この対談は昭和53年5月16日に行われている。翌年大病をし、声帯を失う戸板さんは対談、座談の類からは姿を消してしまうのだったが、いつもながらに聞き役に徹しているように見えながらも、うまく発言を引き出しながら、言うことは言い、絶妙の話術を披露。滝沢とは何度くらい対談をしたのだろう。まだ調べていない……。



□


戸板康二と滝沢修の歳月を思うと、どうしても昭和39年放送の大河ドラマ『赤穂浪士』のことを思い出さずにはいられない。塩冶判官が当たり役だった梅幸が浅野内匠頭を演じ、それまで映画では2回演じたことのある滝沢修にとっても当たり役の吉良上野介! 当たり役と当たり役の共演、梅幸と滝沢修の共演は、戸板さんにとっては一種の夢の共演だったのではないかなあと思うと、にんまりしてしまう。



『NHK』(NHK 広報室、昭和39年6月15日発行)、「特集〈赤穂浪士〉出演者名鑑/極付名場面集」より、《勅使御接待役の大役を浅野内匠頭(尾上梅幸=左から二人目)は吉良上野介の指図を受けなければならない立場ですが、いつも底意地悪くあしらわれます》。



そして、いよいよ極め付け名場面! 滝沢の倒れこむ形もいい!



大河ドラマの『赤穂浪士』は柳沢出羽守が三津五郎というのがまたたまらない。浅野をもっといじめてやりなさいと出羽守の言葉を聞き、わが意を得たりとほくそえむ滝沢の場面。



大河ドラマの『赤穂浪士』は、歌舞伎役者と劇団民藝の役者が大勢出演しているというのが、とにかくたまらない! これは《事件後、吉良家とつながる米沢藩主上杉家の江戸家老千坂兵部(実川延若=右)は、赤穂の策動を全力をあげて阻止するために、小林平七(芦田伸介=中央)らと策を練ります。》のシーン。キャー、芦田伸介!



そう、大河ドラマ『赤穂浪士』は民藝の役者がごっそり出演しているのだった。この写真は、民藝ロビーでなごやかに座談に興じる、蜘蛛の陣十郎役の宇野重吉、滝沢修、小山田庄左衛門役の山内明。


# by foujita_kanako | 2012-03-11 22:04 | 年譜の行間
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